私の紹介 「社労士」の仕事と出会うまで①

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おじさんの死

クシャッとした笑顔が印象的で、怒った顔なんで見たことないような、とにかくいつも優しかった「ひろしおじさん」。おじさんは40代半ばで、病気で亡くなりました。おじさんが重い病気だと知らされていなかった当時10歳の私は、大好きなおじさんの突然の死にとてもショックを受けました。それと同時に、おじさんには2人の子供がいたので、おばさんはこれから女手ひとつで子供達を育てていかねばならなくなり、私は子供ながらに、おばさんと従兄妹たちの今後を少し心配に思いました。

父もガンになった

おばさんは無事に子供2人を育て上げました。従兄妹たちも、母親思いの優しい大人に育ちました。

「人生いつ何が起こるか分からない」ということをおばさんの人生から学んだ私は、気付いたら大学生になっており、3年生になった頃には、当然のように就職活動をはじめていました。当時、夢中で軟式野球部のマネージャーをしていた私は、そのままスポーツの世界に居続けたい思いがあり、就職活動では東京のスポーツメーカーばかり受けていました。

第一志望の会社の面接を翌週に控えたある週末、茨城の母から「ちょっと話があるから、土日は地元に帰ってきてほしい」と連絡がありました。何事?と思い、週末を待たずに直ぐ帰省したわけなのですが、小山駅まで車で迎えに来てくれた父から、「お父さん、腎臓にガンが見つかったから、手術することになった」と、いつもと変わらぬ調子で話を聞かされました。深刻な言い方ではなかったため、「そうなんだ!手術頑張らないとね!」と、こちらも軽く考えていましたが、家に帰って母に話を聞くと「お父さんは腎臓がんで、ステージ4。余命は半年か・・・」と、何だか違う人の話を聞かされているような気持ちになりました。

Uターン就職

「お父さん、死んじゃうかもしれない。東京で就職したら、いざという時にすぐ実家に駆けつけれらないかもしれない。」と思った私は、東京での就活を辞め、地元茨城でのUターン就活に切り替えました。

私がUターン就活に切り替えた時期には既に多くの企業が事業説明会を終了していたため、説明会も受けずにとりあえず1社受けてみることにしました。地元茨城の地銀「常陽銀行」。私はスレスレで、その年度の面接スケジュールの最終日程に滑り込みました。こちらの条件としては、①実家から通勤可能な範囲での勤務であること②営業職であること、でした。正直、銀行員になりたいと思ったことは一度もありませんでした。志望動機にも、銀行で働きたい理由は1つも書けなかったため、面接官には正直に「父が病気になったため、地元に戻りたいと思った」「東京でなくとも、どこにいても成長できると思った」と伝え続けたところ、無事内定をいただくことができました。両親にも無事に内定の報告をすることができて、とても嬉しかったのを覚えています。

次回は、大学生の時に書いた「ライフプランニング表」と、社会人になってからの話を書いていきたいと思います。ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

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